2025-12-10#小説

『通り道』

私鉄に乗り継いでしばらくすると、景色は下町の色を帯びてくる。夏の日差しを受けながら、電車はゆっくりと進む。乗客の数はだんだんとまばらになる。

伯母の住む街は、都会の流れからこぼれ落ちたような場所にある。駅前の商店街にはシャッターがならび、空き地には雑草が茂っている。

僕はスマートフォンの地図を手に、かつて商店街だった通りを歩く。通りは先の方で立ち入り禁止になっている。

「東京にでも行ってきたら?伯母さんもいることだし」

母からこう言われたのは梅雨の時期だった。高校を卒業してから数ヶ月、僕はどこにも属していなかった。残りわずかの十代を、自宅で過ごしていた。

高校にいたころから、勉強にはうまく乗れなかった。要領よくこなすことができなかった。それでも、何かに向き合いたかった。

唯一すがることができたのは、”書く”ことだった。書くといっても、文章ではない。僕が惹かれたのは、プログラムを書くことだった。

コードを書いていると時間を忘れた。一行目を書くと、そこに何かが通うような気がした。書いているうちに行先が変わることもあった。それが楽しかった。

***

その家は、気をつけなければ通りすぎてしまうような路地の一角にある。年季の入った小さな木造家屋。表札は陽に焼けている。

鍵は郵便受けに入れておくと、母を通して伝えられていた。僕は鍵を取り出し、鍵穴を回して引き戸を引く。コマの動きが悪いようで、思ったよりも強い力がいる。

家の中は暑さでむっとしている。一階には水回りとテーブルがある。僕は玄関で靴を脱ぎ、奥の階段を上がる。

二階には畳の部屋がひとつある。電気をつけ、荷物を置いて座布団に座る。窓は開いているが、風は入ってこない。

テーブルにはメモがあり、こう書いてある。

「少しの間、出ています。パソコン、使っていいです。IDとパスワードは下の通り」

癖のある丸字で走り書きされている。最後に一言、「好きに過ごしてね」と添えられている。

壁にはノートパソコンが立てかけてある。僕は電源を入れ、アルファベットと数字を入力する。

画面を開いたそのとき、チャットの通知が右下に出る。

──「社長、今どこにいます? 駅のほう、回れます?」

送り主には「ヒガシ」とある。

***

「つまり、こういうことなんすよ」

ヒガシと名乗る青年はシャツの袖をまくりながら言う。

「注文が詰まっちゃってて、ラチがあかないんす。もう全然まわらなくて」

「詰まるって、どういう……」

僕の言葉を待たずに、彼はすばやくパソコンを開けて画面を指す。ログのような文字が流れ、ある箇所で止まっている。

「これ、ウチの注文システムなんすけど、途中からバグってて」

「それを、僕に直してほしいと?」

彼は軽く笑いながら、椅子に深く掛けなおす。そして店員の方へ手を挙げる。

「コーヒー、アイスでいいっすか?」

青年と待ち合わせたのは、駅から十分ほど歩いた雑居ビルの一階だった。

厚い扉の奥には、無機質な空間が広がっている。コンクリート壁の、窓のない喫茶店。ピアノの旋律が同じフレーズを繰り返している。

「俺、あの人──伯母さんに拾われたみたいなもんで」

運ばれてきたアイスコーヒーには縁まで氷が入っている。

「いっつも人遣いが荒いんだけど。まあ、日頃の恩ってやつっすよ。こういうときくらいは」

「どのあたりに不具合があるんですか?」と僕は聞く。

「おかしいのはわかるんすけど、俺じゃ無理で」

青年は、運ばれてきたグラスをこちらに寄せる。

「あの人に言われたんすよ。甥っ子さん、そういうの得意だって」

僕は首をすくめ、視線を落とす。グラスを手にしたが、冷えた感じがしない。

「でも、書けるんすよね?」

「触ってはいます。でもこういう、大事なものは」

「俺らが良いんだから、問題ないんじゃないっすか」

青年は食い入るように言ったあと、少しだけ表情を緩める。

「すみません。こういうお願い、迷惑ですよね。せっかく東京まで来たんだし」。彼は笑いながらも画面をこちらに向けたままにしている。

「嫌ってわけじゃないです。ただ」

「ただ?」

「他人のコードを触るのは、呼吸を合わせるのに時間がかかるというか。勝手がちがうと、うまく動かなくなるんです」

「なるほど。職人っぽいっすね」と彼は少し顔を引きながら言う。

「そんな大それたものじゃなくて」と僕は訂正する。

「俺、そういうの好きですよ。そういう”間(ま)”でやってる人」

彼の言葉に、僕は口をつぐむ。

店の音楽が止み、かすかに空調の音がする。グラスの氷がひとつ、小さく音を立てて沈む。

青年の目は、こちらを見据えている。

***

家の引き戸を開けると、キッチンの明かりが灯っている。

「いらっしゃい」

顔を上げた伯母が軽く手を振る。そして逆の手で扇子をあおぐ。

「今日も蒸すわね。朝、書いてたかしら。エアコンが壊れてるのよ」

昔と同じように、伯母は目元で笑う。髪は短く整えられ、ピアスが耳元で揺れている。

「今日はお世話になります」

「そんな堅くなんなくていいのよ。冷蔵庫に麦茶があるの。自分で注げるわね?」

そう言って伯母は椅子の背にもたれる。

僕は麦茶を出してグラスに注ぎ、向かいの椅子に座る。

「ヒガシ君から聞いてるわよ。あなたに頼みごとをしてるって」

伯母はそう言いながら、また扇子であおぐ。

「もちろん、無理にやらなくていいのよ。東京まで来て、仕事なんてね。大人でも嫌よ」

「なんというか、ちょっと気になってはいます」

僕がそう答えると、伯母はあおぐのを止めて目を細める。

「十代の子をそそのかすなんて、あの子もやるわね。あなた、すぐに動くタイプには見えないし」。伯母は立ち上がって、鞄を手に取る。

「私はこれから外。夜には戻るけど、好きにしてて」

「仕事ですか?」

「こっちでもいろいろ商売してんのよ。ヒガシくんも外で頭下げてくれてるし、私も頑張らないと」

伯母はパンプスを履きながら、こちらを振り返る。

「やってみたくなったら、とことんやってみなさい。でも中途半端はだめよ。書き手に失礼だから」

それだけ言って、伯母は手を振って出ていく。扉の閉まる音がして、急に静かになる。

***

プログラムを読み始めてから数時間が経つ。そこにあるコードは、僕の知るどの言語とも違っていた。インターネットで調べると、古い言語らしい。情報はほとんど見つからない。

変数に似た名前のような断片、制御構文らしき記述、条件の分岐。見覚えのある形式のなかに、見たことのない法則が潜んでいる。

それでもコードが整っていることだけは、はっきりとわかった。読む人をむかえ入れようとする気配がある。ただ、その入り口までが遠い。

僕は一階に降り、麦茶のおかわりをグラスに注ぐ。流しのボウルに水を張り、氷をそこに入れる。

二階に戻って荷物からタオルを出し、氷水につけて絞る。それを首に巻く。冷たさが体に広がり、頭の中が澄んでくる。

僕は姿勢を正して目を閉じ、深呼吸をする。再び目を開けてコードに向かう。

書き手の思考をトレースし、太い流れに身を預ける。頭からお腹に重心を落とし、言わんとすることを身体でつかむ。

深くコードのなかに潜っていく。次第にコードと自分との境がなくなっていく。目を閉じてしばらくすると、ある身体感覚がよみがえる。

まだ小さかった頃、祖父と一緒に海へ行ったことがあった。波は穏やかで、底まで見通せるほど透きとおっていた。祖父は潜り方を教えてくれた。

僕は大きなゴーグルをつけ、素足で海に入る。息を深く吸い、逆さになって水中へ向かう。吐く息は小さくとどめる。

あるとき魚の群れを見つけたくて、いつもより深く潜った。岩肌をつかんで勢いをつけ、下へと向った。水深が増すと胸がきしんだ。水の冷たさが皮膚を越えて骨に届いた。

いつもは届かない場所に両足をつけた。戻りの息を思えば限界は近い。それでも僕はその場に留まり、あたりを見渡した。息をさらに絞り、水底で時間を稼いだ。

そのときだった。ある角度から光が差し、水中がふいにひらけた。まぶしい光のなかで、魚の群れが渦を巻いていた。

あたりは無音で、時間がゆっくりと流れていた。光と水と魚、自分の身体、すべてがつながっていた。浮上しなければ危ういと知りながら、その景色から目を離せなかった。

***

古い感覚を身にまとい、再びコードに潜る。記述されたものを何度も読む。頭が空っぽになるまで読む。自分がコードそのものになってしまうまで読む。

細部をとっかかりにして深く潜る。探索する場を変えてさらに潜る。コードの底に身を据えて、何かが来るのを信じて待つ。

しばらくすると、無数の断片に橋がかかったようにひとつの像が結ばれる。その像が光を放ち、見えなかったところが有機的に繋がってくる。

部分から全体が、全体から部分が開けてくる。「見えた」という感覚が身体に残る。

青年の言っていた「詰まり」は、おそらくここにある。誰かが修正を加えたような跡がいくつもある。そこだけ水準の低い書き方がなされている。

できるだけ元の構造を壊さず、小さな手直しで道を正す。全体と部分の繋がりを見て、ほかの箇所も調整する。

必要なところは、自分なりの解釈で新たな構成で書く。細部の書き込みを何度もやる。そして最後にテストを走らせる。結果は、通った。

手を止めた瞬間、あたりは暗くなっている。思ったより長くコードに向かっていたらしい。完了したと一報を入れ、パソコンを閉じる。

僕はぬるくなったタオルをボウルに入れる。ほっとため息をつく。しばらくぼんやりし、プログラムの手触りを反芻する。

意識が戻ってきたとき、ひとつの疑問が浮かぶ。

──なぜ、あのような古い言語が、今も使われているのだろう。

それは数十年も前に廃れた言語だった。今の時代に使われるには古すぎる。

僕は一階に降り、グラスとボウルを洗う。タオルは絞ってかけておく。そしてキッチンテーブルに腰を下ろす。

壁の方に目をやると、会計帳簿と新聞が積まれている。帳簿は伯母の会社のものらしい。二、三年分が重ねてある。

その脇に一本の万年筆が置いてある。手に取ってみると、既視感のようなものがよぎる。自宅の書棚に置いてある、母の万年筆と同じ型だ。

それは祖父の万年筆だった。

***

伯母と母は一歳違いの姉妹だ。どちらが年上か当てるのは、昔の写真を見ても難しい。二人の育った家の様子は、家業を営む祖父──二人にとっての父──に左右された。

祖父は昔気質の人だった。良くも悪くも豪快だった。景気のいいときは羽振り良く金を使い、苦しいときは歯を食いしばって乗りきった。

売るものは時代によって変わった。下着や菓子に始まり、プラスチック製品、計算機やワードプロセッサーを扱うときもあった。

新しいものが入るたび、祖父はそれを誰よりも先に使った。自社の名前で製品を売り出すこともあった。

祖父のまわりには、いつも”流れ”があった。家には人の出入りが絶えなかった。門戸はいつも開いていた。祖父を中心に、ものごとが一体となって動いていた。

しかし、商いは波に揺られた。商売が傾くとまわりの顔色は変わった。年齢が増し病気が襲うと、その語気は弱まった。人の往来は少しずつ失われていった。

引退した後の祖父は、静かな書斎で過ごすことが多くなった。夜更けまで灯りを点けて何かを書いていた。そのことについて、誰も詳しくは知らなかった。

***

重たい扉を開けると、鈴が転がるように鳴る。煙草混じりの冷たい空気が鼻の奥まで届く。店の照明は暗く、奥から笑い声が聞こえてくる。

「いらっしゃい」

カウンターから人の声がする。見た目からは、年齢も性別もわからない。

「あんた、今日は二人も連れてるのね」

伯母は眉を上げて肩をすくめる。

「たまにはね」

「そちらの新顔は?」その人が僕を見る。

「えーと、ボスの身内で。まあ、ママに紹介するには若すぎるかな」。青年が言いながら、照れくさそうに笑う。

「こっち、お座りなさいな」

僕たちは並んで腰を下ろす。背筋のあたりから、ゆるやかな音楽が染み込んでくる。

「大人びた顔してるけど、お酒はダメね?」、ママと呼ばれた人が言う。

「未成年なんです」と僕は正直に答える。

「まあ、今日は場に酔ってもらいましょ」

ママは笑って僕のグラスに氷を入れ、ジンジャーエールを出してくれる。伯母にはカクテル、青年にはビールが出される。

照明はさらに落とされ、店全体が暗みを増す。青年はジョッキを空け、二杯目を頼む。

会話はゆるやかに流れていく。グラスの氷が静かに沈んでいく。

「そういえば──」

青年が思い出したようにつぶやく。「あのプログラム、誰が書いたんすか?」

伯母は、ほんのわずかに目を細める。

「古い知り合いよ」とだけ言う。

「ずっと使ってるって、なかなか変わってるよなあ」。彼は笑って言うが、ほとんど目は開いていない。

「誰かの言葉を、そのまま残しておくって、変かしら」

「それって、恋よ」

カウンターの奥でママが軽やかに言う。冗談とも真剣ともつかない響きがある。

伯母は、静かにグラスを口元に運ぶ。

「そういうものかもね」

青年は三杯目を飲み干し、カウンターに置く。

「ちゃんと見つけて、残してくれる人がいるってのは救いっすよね」

彼は身体を傾ける。やがて深く息をつき、眠りに落ちる。

「この子もたまにはいいこと言うじゃない」とママが言う。

「でも、しがみついてちゃダメね。記憶とひとつになれたら、進むべきよ」

青年の寝息が、静かな店内に溶けていく。ママは氷を取りに奥へ引っ込む。

伯母はグラスを手にしたまま、少しだけ僕の方を向く。

「直してくれて、ありがとね。この子にも感謝しないと」。青年を見て言う。僕は何も言わずにうなずく。

伯母はグラスを見つめながら、続ける。

「おかげでまあ、進めそうよ」

僕はカウンターの木目を見ている。

「これからどうするの?」と伯母は続ける。

「迷っています」と僕は返す。

「お母さんと同じね。何かが通ってないと、進めない」

伯母はやさしく僕の目を見て言う。

「何を引き受けるべきか、探すのもいいんじゃない。それが何年かかったとしても」

視界の端で、掛け時計の秒針が静かに進んでいる。グラスの氷が溶けて、水面が少し上がる。僕はそのまま目を閉じる。

***

目を覚ますと、木目の天井が見える。僕は布団の上にいる。薄いブランケットが肩までかかっている。帰り道のことは覚えていない。

遠くで鳥の声がする。窓が開いていて、カーテンを風が揺らす。やわらかい朝の光が隙間から入ってくる。

身体を起こすと、頭ははっきりとしている。テーブルにはメモが置かれている。

「鍵はポストに入れておいて。朝ごはんは冷蔵庫から勝手にどうぞ」

伯母の字で手早く書かれている。窓の方を見ると、雲の間から朝日が見える。

僕は荷物をまとめて一階へ降り、身支度をする。冷蔵庫から麦茶とおにぎりを出して食べる。少し迷ってから、伯母に一言を残す。そして玄関へ向かう。

靴を履いて引き戸を引く。軽やかに戸は開く。涼しい朝の空気が、風となって頬を撫でる。

静かに引き戸を閉め、ポストに鍵を落とす。カチャリと音がする。空を見上げ、深く呼吸をする。そして通りを一歩ずつ進んでいく。

夏原 絃

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