赤い点滅
その黒服の男が現れたのは、夏の日が照りつける午後のことだった。この暑さのなか、男はスーツを着て帽子をかぶり、涼しい顔でまっすぐ、かなりの速さで歩いてきた。ほかに人影はなく、こちらに向かっているのは明らかだった。直感的に、私はそこから逃げなければいけないと思った。しかし足はまったく動かない。
私から数メートルのところで、男はぴたりと立ち止まった。背の高い、細身の男だ。彼はポケットからスイッチのようなものを取り出し、頭の横で高く掲げた。その先端から赤い光が放たれ、あたり一面に広がった。周りの空間と一緒に、私はスイッチの中に飲み込まれてしまった。
気がつくと、そこは無音だった。あたりは真っ暗だった。何かに体が包まれ、縛られているような感覚があった。どうやら私は、暗闇の中で宙吊りにされているらしい。闇は冷たく、空虚だった。
「おーい!」と叫んだが、言葉は声にならなかった。自分の耳にさえ音は届かなかった。体をじたばたさせたり、ねじったりしたが、吊られたまま抜け出せない。時間を置いてまた同じことをしたが、結果は同じだった。足がつかず、ふんばりがきかないのが腹に堪えた。どれだけ待っても、誰も助けには来てくれない。やがて縛られた箇所が痛みはじめた。「誰か出してくれ!」とまた叫んだが、やはり無駄だった。そのうちに疲れがきて、私は眠ってしまった。
次に気がついたとき、かなり時間が経ったようだった。私は宙吊りのままだった。目を開けても閉じても、暗いことに変わりはなかった。体は重くなり、痛みは全身に広がってきた。そしてだんだんと、無音に耐えられなくなってきた。もう駄目だと思ったそのとき、まぶたに赤い光を感じた。顔を上げると、暗闇の中にスクリーンのような空間が現れていた。そこには映像が流れていた。知らない誰かの生活が映されていた。
はじめは平凡な男性の凡庸な生活だった。すると赤い点滅があり、すぐに映像は切り替わった。次は若い女性の派手な暮らしだ。その映像はしばらくつづいた。そしてまた赤い光があり、さらに画面が替わった。次はもっと目を剥く、現実離れした家族の生活が流れた。暗闇の中では長い時間、その映像がつづいていた。私はじっとその様子を見ていた。
ときおり前触れもなく、赤い点滅で私が外の世界に戻されることがあった。はじめて外に出られたとき、私は安堵した。ところが元の生活を始めると、すぐにまた点滅があり、暗闇へと逆戻りした。黒服の男は生活の至る所にやってきて、私の目の前でスイッチを押した。その度に私は吸い込まれ、暗闇へと戻された。
どうやら暗闇に流れる映像は、男の目に映る世界らしかった。赤い点滅を合図に、男は見る世界を切り替えるのだ。誰かが外にいるとき、私は暗闇にいて、男の目を通してその誰かの生活を見る。逆に私が外にいるとき、誰かは暗闇にいて、男の目を通して私の生活を見る。暗闇には私以外にも多くの人がいるのかもしれない、私はそう思うようになった。
暗闇に閉じ込められたくなくて、私は必死になった。男を満足させられるほど、世界は長く立ち上がり、そこに私は存在できた。だから長く映ろうと、私は日常を演出した。最初は外に出られても、数分で戻されることが常だった。ただ、だんだんと要領が掴めてきて、ときには数日、長いと数週間は外に出られるようになった。しかしほかの誰かの映像も、同じように変化した。どの生活もどんどん過激になり、虚構に満ちていった。
いつしか私は今の自分が本当の自分なのか、それとも演じているのか、どれが本当の世界なのか、わからなくなっていた。暗闇に感じるのと同じくらい、外の世界を怖れていた。演じれば演じるほど、暗闇の中で不安が増した。そして私がどうあろうと、黒服はいつも同じ顔で現れた。
延々とつづく時間のなかで、私はもがいていた。手足をばたつかせても、空を切るだけだ。何かを変えなければならなかった。その何かを掴もうとしていた。ある日、また暗闇が訪れた。私は頭をかかえ、怯えて、塞ぎ込んでいた。ただ、恐る恐るその感覚に、注意を向けてみた。いったい私は何に対して、何を感じているのだろう。心や身体の深いところに、少しずつ意識を向けた。それは自分の古傷を素手で開いていくような怖さがあった。その感情に対しても、できるだけ、素直になろうとした。
はじめはうまくいかなかった。すぐに心は不安で満ちた。そしていつものように外へ出て、生活を演じて日数を稼いだ。ただ、暗闇に戻ってから、その暗闇に対して、心を開こうとした。その空間にただ、身を置こうとした。
ときどき、うまくいくと感じることもあった。しかしまた、渦に飲み込まれた。暗闇の中だけではどうにも駄目だった。外の生活でも糸口を見つけねばならなかった。私は、起き、食べ、働き、眠った。そしてまた暗闇に戻った。また外の世界に出て、笑い、怒り、泣いた。たとえ数秒で暗闇に戻されようと、ただ目の前のことに向かった。反復の日々の中に自分自身をぎりぎりと埋め込んでいった。
どれくらい経ったかわからない。どうしてかわからないが、時間というものはだんだんと気にならなくなった。そしてどこにいるのかさえも、あまり気にならなくなった。おそらくまた、私は暗闇にもいたのだろう。あるいは外に出ていたのかもしれない。いつの間にか、私というものは無くなりつつあった。あるいは、私というものが変わりつつあった。
また、まぶたに光を感じる。遠くから、声が聞こえる。そのかすかな声に、耳を澄ます。
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