2025-07-27#短編小説

通り道

私鉄に乗り継いでしばらくすると、景色は下町の色を帯びてくる。夏の日差しを受けながら、電車はゆっくりと進む。乗客の数はだんだんとまばらになる。

伯母の住む街は、都会の流れからこぼれ落ちたような場所にある。駅前にはシャッターがならび、空き地には雑草が茂っている。

僕は手書きの地図を片手に、かつて商店街だった通りを歩く。通りは先の方で立ち入り禁止になっている。

「東京にでも行ってきたら?伯母さんもいることだし」

母からこう言われたのは梅雨の時期だった。中学を卒業してから数ヶ月、僕はどこにも属していなかった。ほとんどの時間を、自宅で過ごしていた。学校に行く意味が、わからなくなっていた。

唯一すがることができたのは、書くことだった。書くといっても、文章ではない。僕が惹かれたのは、プログラムを書くことだった。

コードを書いていると時間を忘れた。一行目を書くと、そこに何かが通うような気がした。書いているうちに行先が変わることもあった。そうやって書いたものが、動く瞬間が好きだった。

その家は、気をつけなければ通りすぎてしまうような路地にある。年季の入った、小さな木造家屋。表札は陽に焼けている。

鍵は郵便受けに入れておくと、母を通して伝えられていた。僕は鍵を取り出し、鍵穴を回して引き戸を引く。コマの動きが悪いようで、思ったよりも力がいる。

家の中は暑さでむっとしている。玄関で靴を脱ぎ、キッチンを抜けて奥の階段を上がる。二階には畳の部屋がひとつある。僕は荷物を置いて、座布団に座る。

窓は開いているが、風は入ってこない。テーブルにはメモが置いてある。

「ちょっと外に出てます。パソコン、使っていいです。IDとパスワードはこちら」

癖のある字で走り書きされている。最後に一言、「好きに過ごしてね」と添えられている。

壁にはパソコンが立てかけてある。僕は電源を入れ、アルファベットと数字を入れる。画面が立ち上がると、チャットの通知が右下に出る。

「社長、どこにいます? 駅のほう、回れます?」

送り主には「ヒガシ」とある。

「つまり、こういうことなんすよ」。ヒガシと名乗る青年はシャツの袖をまくりながら言う。

「注文が詰まっちゃってて、ラチがあかないんす」

「詰まるって、どういう...」

僕の言葉を待たずに、彼はすばやくパソコンを開く。ログのような文字が流れ、ある箇所で止まっている。

「これ、うちのシステムなんすけど、途中からバグってて」

「それを、僕に直してほしいと?」

彼は軽く笑いながら、椅子に深く掛けなおす。店員の方へ手を挙げる。

「コーヒー、アイスでいいっすか?」

青年と待ち合わせたのは、駅から十分ほどの雑居ビルの一階だった。

厚い扉の奥には、無機質な空間が広がっている。コンクリート壁の、窓のない喫茶店。ピアノの旋律が同じフレーズを繰り返している。

「俺、あの人...伯母さんに拾われたみたいなもんで」。運ばれてきたアイスコーヒーには縁まで氷が入っている。

「まあ、日頃の恩ってやつっすよ。こういうときくらいは」

「どのあたりに不具合があるんですか?」と僕は聞く。

「おかしいのはわかるんすけど、俺じゃ無理で」

青年は、運ばれてきたグラスをこちらに寄せる。

「あの人に言われたんすよ。甥っ子さん、そういうの得意だって」

僕は首をすくめ、視線を落とす。グラスを手にしたが、冷えた感じがしない。

「でも、書けるんすよね?」

「触ってはいます。でもこういう、大事なものは」

「俺らが良いんだから、良いんじゃないっすか」

青年は食い入るように言ったあと、表情を緩める。

「すみません。こういうお願い、迷惑ですよね。せっかく東京まで来たんだし」

彼は笑いながらも、画面をこちらに向けたままにしている。

「嫌ってわけじゃないです。ただ」

「ただ?」

「他人のコードを触るのは、呼吸を合わせるのに時間がかかるというか。勝手がちがうと、うまく動かなくなるんです」

「なるほど。職人っぽいっすね」、彼は顔を引きながら言う。

「そんな大それたものじゃなくて」と、僕は訂正する。

「俺、そういうの好きですよ。そういう”間(ま)”でやってる人」

僕は口をつぐむ。

店の音楽が止み、空調の音がする。グラスの氷がひとつ、小さく音を立てて沈む。

青年の目は、こちらを見据えている。

家の引き戸を開けると、キッチンの明かりが灯っている。

「いらっしゃい」

伯母が軽く手を振る。そして、扇子をあおぐ。

「今日も蒸すわね。メモに書いてたかしら。エアコンが壊れてるのよ」

伯母は目元で笑う。髪は短く、ピアスが耳元で揺れている。

「今日はお世話になります」

「そんな堅くなんないでよ。冷蔵庫に麦茶があるの。自分で注げるわね?」

そう言って、椅子にもたれる。僕は麦茶を出してグラスに注ぐ。向かいに座ってそれを飲む。

「ヒガシ君から聞いてるわよ。あなたに頼みごとをしてるって」伯母はそう言いながら、また扇子であおぐ。

「無理にやんなくていいのよ。東京まで来て、仕事なんてね。大人でも嫌よ」

「なんというか、ちょっと気になってはいます」そう答えると、伯母はあおぐのを止める。そして目を細める。

「子どもをそそのかすなんて、ヒガシ君もやるわね。あなた、すぐに動くタイプには見えないし」。伯母は立ち上がり、鞄を手に取る。

「私はこれから外。夜には戻るけど、好きにしてて」

「仕事ですか?」

「こっちでもいろいろ商売してんのよ。ヒガシくんも外で頭下げてくれてるし。私も頑張んないと」

伯母は靴を履きながら、こちらを振り返る。

「やってみたくなったら、とことんやってみなさい。でも中途半端はだめよ。書き手に失礼だから」

それだけ言って、伯母は出ていく。引き戸が閉まり、急に静かになる。

プログラムを読み始めてから数時間が経つ。インターネットで調べると、かなり古い言語らしい。情報はほとんど見つからない。

変数に似た名前のような断片、制御構文らしき記述、条件の分岐。見覚えのある形式のなかに、見たことのない法則が潜んでいる。

それでもコードが整っていることだけは、はっきりとわかった。読む人をむかえ入れようとする気配がある。ただ、入り口までが遠い。

僕は一階に降り、麦茶のおかわりを注ぐ。ボウルに水を張り、氷を入れる。

二階に戻ってタオルを出し、氷水につけて絞る。それを首に巻く。冷たさが体に広がる。

僕は目を閉じ、姿勢を正し、深く呼吸をする。再び目を開けてコードに向かう。

深くコードのなかに潜っていく。コードと自分との境がなくなっていく。すると、ある感覚がよみがえる。

まだ小さかった頃、祖父と一緒に海へ行ったことがあった。波は穏やかで、透きとおっていた。祖父は潜り方を教えてくれた。

僕は大きなゴーグルをつけ、素足で海に入った。息を深く吸い、逆さになって水中へ向かった。吐く息は小さくとどめた。

あるとき、魚の群れを見つけたくて、いつもより深く潜った。岩肌をつかんで勢いをつけ、下へと向った。水深が増すと胸がきしんだ。冷たさが骨まで届いた。

いつもは届かない水底に両足をつけた。戻りを思えば限界は近い。それでも僕はそこに留まって、あたりを見渡した。息をさらに絞った。

そのときだった。ある角度から光が差し、水中がふいにひらけた。まぶしい光のなかで、魚の群れが渦を巻いていた。

あたりは無音で、ゆっくりと時間が流れていた。光と水と魚、自分の身体、すべてがつながっていた。もう息が持たないと思いながら、その景色から目を離せなかった。

再びコードに向かう。記述されたものを何度も読む。頭が空っぽになるまで読む。

細部をとっかかりにして深く潜る。探索する場を変えて、さらに潜る。コードの底に身を据えて、信じて待つ。

しばらくすると、無数の断片に橋がかかったように像が結ばれる。部分から全体が、全体から部分が、一気に繋がってくる。

「見えた」という感覚が残る。

青年の言っていた「詰まり」は、おそらくここにある。誰かが修正を加えたような跡がいくつもある。そこだけ水準の低い書き方がなされている。

元の構造を壊さず、小さな手直しで道を正す。繋がりを見て、ほかの箇所も調整する。

必要なところは、自分なりに新たな構成で書く。書き込みを何度もやる。最後にテストを走らせる。結果は、通った。

手を止めた瞬間、あたりは暗くなっている。思ったより長くコードに向かっていたらしい。完了したと青年に一報を入れ、パソコンを閉じる。

ぬるくなったタオルをボウルに入れる。ほっとため息をつく。しばらくぼんやりとする。

そして、ひとつの疑問が浮かぶ。

なぜ、あのような古い言語が、今も使われているのだろう。

それは数十年も前に廃れた言語だった。今の時代に使われるには古すぎる。

僕は一階に降り、グラスとボウルを洗う。タオルは絞ってかけておく。そして椅子に腰を下ろす。

壁の方に目をやると、会計帳簿と新聞が積まれている。帳簿は伯母の会社のものらしい。

その脇に一本の万年筆が置いてある。手に取ってみると、見覚えのある感じがする。自宅の書棚に置いてあるものと同じ型だ。

それは祖父の万年筆だった。

伯母と母は一歳違いの姉妹だ。二人の育った家は、家業を営む祖父に左右された。

祖父は昔気質の人だった。良くも悪くも豪快だった。景気のいいときは羽振り良く金を使い、苦しいときは歯を食いしばって乗りきった。

売るものは時代によって変わった。下着や菓子に始まり、プラスチック製品、計算機やワードプロセッサーを扱うときもあった。新しいものが入るたび、祖父はそれを誰よりも先に使った。自社の名前で売り出すこともあった。

祖父のまわりには、いつも”流れ”があった。家には人の出入りが絶えなかった。祖父を中心に、ものごとが一体となって動いていた。

しかし、商いは波に揺られた。商売が傾くとまわりの顔色は変わった。老齢になって病気が襲うと、祖父の語気は弱まった。人の往来は少しずつ失われていった。

引退した後の祖父は、静かな書斎で過ごすことが多くなった。夜更けまで灯りを点けて何かを書いていた。そのことについて、誰も詳しくは知らなかった。

重たい扉を開けると、鈴が転がるように鳴る。煙草混じりの冷たい空気が鼻に届く。店は暗く、奥から笑い声が聞こえてくる。

「いらっしゃい」

カウンターから人の声がする。

「あんた、今日は二人も連れてるのね」

「たまにはね」

伯母は眉を上げ、肩をすくめる。

「そちらの新顔は?」その人が僕を見る。

「えーと、社長の親戚で。まあ、ママに紹介するには若すぎるかな」

青年が言いながら、照れくさそうに笑う。

「こっち、お座んなさいな」

僕たちは腰を下ろす。

「大人びた顔してるけど、お酒はダメね?」、ママと呼ばれた人が言う。

「15歳なんです」と僕は答える。

「場に酔ってもらいましょ」

ママは笑って、僕にジンジャーエールを出してくれる。伯母にはカクテル、青年にはビールが出される。

照明はさらに落ち、店全体が暗みを増す。青年は二杯目を頼む。

会話は静かに流れていく。グラスの氷が静かに沈んでいく。

「そういえば」青年が思い出したようにつぶやく。

「あのプログラム、誰が書いたんすか?」

伯母は、ほんのわずかに目を細める。「古い知り合いよ」とだけ言う。

「ずっと使ってるって、なかなか変わってるよなあ」。

彼は笑って言うが、ほとんど目は開いていない。

「言葉をそのまま残しておくって、変かしら」

「それって、恋よ」カウンターの奥でママが軽やかに言う。冗談とも真剣ともつかない響きがある。

伯母は少し笑って、静かにグラスを口元に運ぶ。「どうかしらねえ」

青年は三杯目を飲み干し、カウンターに置く。

「ちゃんと見つけて、残してくれる人がいるってのは救いっすよね」。

彼は身体を傾ける。深く息をつき、やがて眠りに落ちる。

「この子もたまにはいいこと言うじゃない」とママが言う。

「でも、しがみついてちゃダメね。記憶とひとつになれたら、進むべきよ」

青年の寝息が、静かな店内に溶けていく。ママは氷を取りに奥へ引っ込む。

伯母はグラスを手にしたまま、僕の方を向く。

「今日はありがとね。この子にも感謝しないと」、青年を見て言う。僕は何も言わずにうなずく。

「これからどうするの?」と伯母は続ける。

「迷っています」と僕は返す。

「お母さんと同じねえ。何かが通ってないと、進めない」伯母は僕の目を見て言う。

「まあ、何を引き受けるべきか、探すのもいいんじゃない。それが何年かかったとしても」

目を覚ますと、木目の天井が見える。薄いブランケットが肩までかかっている。遠くで鳥の声がする。窓が開いていて、カーテンを風が揺らす。朝の光が隙間から入ってくる。

身体を起こすと、頭ははっきりとしている。テーブルにはメモが置いてある。

「鍵はポストに入れておいて。朝ごはんは冷蔵庫。元気でね」

窓の方を見ると、雲間から朝日が見える。

僕は荷物をまとめ、身支度をする。一階に降りて麦茶を飲み、おにぎりを食べる。少し迷ってから、伯母に一言を残す。そして玄関へ向かう。

靴を履いて引き戸を引く。軽やかに戸は開く。涼しい朝の風が、頬を撫でる。

引き戸を閉め、ポストに鍵を落とす。カチャリと音がする。空を見上げ、深く呼吸をする。そして通りを一歩ずつ進んでいく。



夏木 絃

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